「どうして勉強しなきゃいけないの?」

センター終了後、死人のようにブラブラと歩いていたら中学の時の友達と会った。
久しぶりだったことで話も弾み、いろいろなことを話した。
その中で彼は「勉強する意味が分からない。特に数学なんて実社会に出て使わない。意味が無い。」と言っていた。
その時自分は「そうか。」と答えたが、そういう次元の話じゃないだろ。


上記のように、よく「学校の勉強に意味は無い」とか言う奴がいる。
そしてきまって「数学がなんの役に立つ。古典がなんの役に立つ。役に立つわけが無い。」と言う。
こういう思考停止した脳みそが豆腐のような人間を見ると可愛そうになってくる。
まず始めにこういう人間は、「勉強」は「お勉強」と「勉強」の2種類に分かれるということを知らない。
自分は、少なくとも小中高における勉強は「お勉強」であり、大学における勉強こそ「勉強」だと思っている。
噛み砕いて言うと、「お勉強」は受験を突破するためのもの=詰め込み教育であり、「勉強」こそ学問の真髄を研究し、学ぶということだ。


こう考えると、詰め込み型の「お勉強」に意味なんてあるのだろうか。いや、あるわけがない。
かと言って、じゃあ「勉強」に意味があるのかといわれたら、これにも意味なんてないだろう。
じゃあ意味が無いのにやってどうするの?と言われそうだが、勉強に意味なんてあるわけ無いじゃん、常識的に考えて。そもそも「お勉強」もしくは「勉強」に意味を求めることが間違い。
大事なのは、「意味がある、役に立つから勉強する」ではなく、「勉強するからこそ何かしらの役に立つ」という考えにあると思う。人間、森羅万象に対してその存在意義や意味を知りたがるが、それじゃあいけない。


例を挙げる。
「前3000年頃、シュメール人がウル・ウルク・ラガシュ等の都市国家を築いた。同じ頃エーゲ海域では青銅器を用いた、写実的なエーゲ文明が栄えていた。メソポタミアではその後、アッカド人、アムル人と交代し、アムル人はバビロン第一王朝を築いた。バビロン第一王朝ではハンムラビ王が復讐法でお馴染みのハンムラビ法典(ちなみに世界最古の法典ではない。世界最古の法典は「ウルナンム法典」。)を発布し、統治した。だが、バビロン第一王朝は世界で初めて鉄器を用いたヒッタイトに破れ、滅ぼされてしまう。その後メソポタミアではヒッタイト・ミタンニ・カッシートの世界になっていく。。」
ざっとメソポタミアの歴史を書いてみたが、これを学んで何の意味があるのだろうか。
まず少なくとも日常会話において「シュメール人」やら「バビロン第一王朝」なんで単語は出てこないだろう。
そう、生活を送る上で全くもって不必要な知識なのだ。まあ誰だって分かると思うが。
だが、こういう知識はいつか何かしらの役に立つときがある。クイズ番組や知識自慢とかね。
もう一度言うが、「意味がある、役に立つから勉強する」ではなく、「勉強するからこそ何かしらの役に立つ」ということを徹底してほしい。


今度は違った角度から「勉強」について見ていきたい。
「なぜ勉強するのか」ということだが、それは「一般教養を身につけるため」とも言える。
「一般教養」を身につけなくては、社会に出ても困るのは目に見えている。


日本では中学までが義務教育となっているが、事実、多くの学生が高校に進学するこのご時世、高校までが義務教育であると言っても過言ではない。
自分が思うに、高校までは勉強が嫌いでも、無理やり行かされてもそれはそれでいい。だが、そういう人間は大学に行く必要は無い。要するに、勉強したくない奴は大学に行く必要は無い。むしろ行くなと言いたい。
いつ始まったか定かではないが、今の日本は大学を卒業して普通という風潮がある。
その風潮に乗じて、本来は勉強をしたくないのに大学進学するアホがどんどん増えている。結果、就職が無い→何故大学進学したのに就職が無い…という人間で氾濫する。
繰り返すが、勉強したくない奴は大学に行かなくていい。そういう人間が足を踏み入れるような場所ではない。


話は戻って、少なくとも「一般教養」は高校卒業で身につけることができ、それ以降、高卒でも収入云々を除いては、至極真っ当な人生を送れると思う。
人生の最終的な目標としては一人立ちし、金を稼いで食っていくところにあるのではないか。
ということはどんな道を歩んだって、最後にはバイトだろうが道路工事だろうが肉体労働だろうが金を稼ぎ自分で食ってければいいわけで、別に大学まで行って勉強する必要は無い。


というか、ここまでゴチャゴチャ書いてきたが、結局のところ
勉強したくない奴はしなくていい。困るも困らないもあんた次第。社会に出て困ると思えば勉強すればいいし、困らないと思えばそれでいい。したくない奴はするな
ということに落ち着くと思う。
ホント、勉強したくない奴は勉強しなくていいんだよ。つうかやめろ。
俺の周りにも腐るほどいるのだが、テストは赤点ばかりで勉強は嫌い。常にキャッチボールかなんかで遊んでいる。授業中もペチャクチャペチャクチャ話してばかりで、授業なんか聞いちゃいない。
そういう奴が大学進学って、笑わせるなよ。行く行かないは個人の自由だから止めはしないけど。
「大体なんで大学行くの?」って聞くと、「別に、なんとなく」とか「親が行けって言うから」、
「なんで○○学部に行くの?」って聞くと、「ここなら行けるから」とか「なんとなくだっつうの」という答えが少なからず返ってくる。もう見てらんない。
「なんとなく」で大学行ってどうすんだ? 本来大学はそういう場所じゃないぞ?
「親が行けって言うから」? 行くのはおまえ自身の問題じゃないのか?
「ここなら行ける」? 自分の興味関心がある学問を研究し、学ぶところが大学じゃないのか?
こういう奴らと話してると頭が痛くなるのは必至。


なんか話が途中、脱線したりなんだりで伝わってるのかどうかが分からないが、結局、最後の太字になってるところが俺の結論。投げやりだけど。
ホント、勉強したくない奴はするな。しなくていい。する必要が無い。働け。
困るも困らないも自分次第なんだよ。人様のせいにするな。
最後に、なるほどと思ったレスを引用して終わりにしたい。

582 :番組の途中ですが名無しです :2007/01/26(金) 00:27:43 ID:KF18IAmG0 ?BRZ(6030)


今日本屋で「珍説愚説辞典」とかいう本の前説を読んで思ったこと。
最近の学問は疑問の余地が無さ過ぎるんだよね。正しいことをこれは正しいから覚えろってそれだけだから面白くない。
自分の意見、自分の考えってものがまるっきり殺されて、学問について議論することができない。
勉強している間は真理の下僕であり、絶対的に正しい教科書様の言うことを聞くことしかできない。そんなんが楽しいわけないね。
もちろん既存の知識を吸収し尽くした暁にはやっと自分自身で真理を探究することができるようになって楽しくなってくるわけだが、
そういうのは大学も後半になってからだろうし、ましてや小中学生にそれを目標に勉強しろというのは酷だ。
遠い未来の楽しみのために今の楽しみを犠牲にできる人間はそうそういるもんじゃない。
学問も数世紀前と比べれば格段に進化してきてるわけだが、人間の脳味噌に革命が起こったわけじゃない。
昔と変わらない頭の構造で、昔とは比べ物にならない程大きくなった学問を完全に理解するのは至難の業。
一つ一つの積み重ねを超えた先に新たな進歩があるとはいえ、今はその積み重ね段階が多すぎる。
小中高と十数年近くもみっちり勉強しなけりゃ追いつけないってのはもう限界に来てると思う。
そろそろ中学の半ばあたりから専門性を取り入れるべき。
数学が得意なら数学を、物理が得意なら物理を、政経が得意なら政経を専門的に学べるように。
例外的に専門学校に行かせるとか消極的な方法じゃなく、全国民が当たり前のように選択できる風潮が欲しい。
無駄が多いんだよね今の勉強は。高校で日本史や世界史を習っても理系に行けば全く使わない。
常識がどうのこうの言われるが、常識レベルなら既に小学校の勉強で十分なはず。高校レベルはさすがに無駄。
教育はもっと洗練することができる。


引用元:ttp://news23.2ch.net/test/read.cgi/news/1169729147/