男もすなる日記というものを、女もしてみむとてするなり。

近頃、漢文に続き古典も面白いと感じるようになってきた自分。
そのきっかけは日本三大随筆の中のひとつ「徒然草」で有名な「兼好法師」。
徒然草序段、「つれづれなるままに日暮らし、硯にむかひて心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」を暗記させられた人は多いんじゃないだろうか。自分も中学生の時にやらされた一人でした。


最近、古文の勉強中に何故か徒然草にエンカウントする確率が高いのだが、その度に思う。「吉田兼好って天才じゃね?」と。
兼好はとても鋭い洞察力を持ち、且つ柔軟な思考を持ち合わせている博学な人だ。これは文章を読めば分かる。そんな兼好が暇つぶしで書いた徒然草の内容は、多方面にわたっている。そんな作品なのだが、なかなか「そうだよなぁ」と感心できるところが多く、一段一段が面白い。


この間、第百三十段の「物に争はず」を読んだ。この段は兼好が学問について書いている。
「人に勝らん事を思はば、ただ学問して、その智を人にまさらんと思ふべし。道を学ぶとならば、善にほこらず、輩に争ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、ただ、学問の力なり。」
要するに「他人に勝とうと思うならひたすら勉強して、その知恵で勝とうと思え。道理を学ぶということは、善行を自慢せず、友と争ってはならないと言うことを知るためなのだ。」と言うことだ。
これを読んで「はぁー」と感心してしまった。勉強するとはこういうことなのかと。すげぇよ、兼好。この段は学生諸君にオススメ。


さらに兼好は趣のある人でも有名。第百三十七段の「花は盛りに」でも分かる。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ、見所多けれ。(中略)
花の散り、月の傾くを慕ふならひはさる事なれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。」
適当に訳をつけると「桜は満開の時、月は一点の曇りもない月だけをみるものだろうか、いや、そんなことはない。雨に打たれて月を恋しく思い、部屋の中で春の終わりを見届けるのも、それもまた感慨深い。今にも咲きそうな梢や、桜が散り、その花びらが一面に散りばめられている庭こそ、見る価値があるのだ。(中略)
桜が散って、月が欠けていくのを切なく慕うのは当たり前だが、特に無風流な人は「あの枝もこの枝も散っちゃってるじゃないか。もう見る価値なんてねぇ。」なんてことを言う。」と兼好は言っている。
これはまさに兼好ワールド。情を解する兼好だからこそ、このような事が言える。
確かに満開に咲きほこっている花は綺麗だ。だが言われて見れば、花が散ってしまい、地面に散りばめられている花びらを見ても、どこかしみじみとする。
実はこの段は、この話の後に恋愛について書かれている。これもまた「なるほどねぇ」ということが書かれていて興味深い。興味があれば是非読んで欲しい。
本当に兼好の洞察力には頭が下がる。


古文、漢文を見ると拒絶反応を起こす人をよく見かける。自分も勉強としての古典は嫌いじゃあないが、好きでもない。単語とか敬語とか助詞とか助動詞とか接続助詞とか覚えられないわ!って感じ。
うーん、本当は古典文学って面白いのに、勉強という要素が加わるから古典離れが進むんだよねぇ。仕方がないことだけどさ。
調べてないから分からないが、きっと今の時代、「マンガで読む古典文学」みたいな本が発売されていると思う。古典嫌いな人はこういうのから入った方がいいんじゃないかと。
それか徒然草なら、このサイトをオススメする。