「写メを撮る」「写メる」( ゚Д゚)ハァ?

「ご乗車できません」、「愛想を振りまく」、目上に「ご苦労様」・・・
この世の中、鼻につく言葉がたくさんある。
自分もそうなのだが、知らず知らずのうちに使ってしまうのが怖いところだ。
しかしそんな自分でも絶対に使わない言葉がある。それが「写メを撮る」だ。


この言葉は特に若い人に使われていて、学校では頻繁に飛び交っている気がする。
自分はこの言葉を聞くたびに辟易するのだが、何故こうもこの言葉が浸透しているのだろうか。
「写メール」を「写メ」と略すのはまだいい。しかしそれに「撮る」を接続させるのは明らかに誤用だ。
なぜこういった使い方がされているのかというと、おそらく「写メール=画像」と認識しているからであろう。
結論から言うと、「写メール≠画像」である。写メール自体に画像という意味は決して含まない。



ここで一つずつ定義していく。まず「写メール」は
>カメラ付き携帯電話を用いて撮影した画像をメールに添付して送信するサービス*1
のことである。
そして「撮る」は、ご存知の通り写真を写すこと。
これらを単純に合わせると、
「カメラ付き携帯電話を用いて撮影した画像をメールに添付して送信するサービスを撮る」
となる。
ここで確認してみると、写メールは「画像をメールに添付して送るサービス」というあくまでもサービスの一環であり、前述したとおり、決して「写メール=画像」ではない。
普通の人間が考えても分かるように、「サービスを撮る」という日本語はまず使わない。誰しも、「公共サービスを撮る」「ITサービスを撮る」と聞けば違和感を感じるだろう。
そういった違和感を感じることもなく、平然と「写メ撮ろう」などとほざいている病的な人間の気持ちが理解できない。
一体、彼らの脳みそはどうなっているのだろうか。石斧で頭をかち割って見てみたい。


wikipediaによると、なんだか最近は撮影行為自体を「写メ」「写メる」と呼ぶ傾向もあるらしい。
少し話からそれるが、自分は文法的な間違いに対して多少寛容的だと思っている。
例として一時期巷では「ら抜き言葉」が問題になったが、これはそこまで問題にする必要がないのではないと思った。
そもそも日本語は古来から長年の時を経て、現在こうして使われている。
ということは幾度も変遷した結果が今の日本語なのである。
自分は、日本語は英語等の外国語と違い非常に難解で、絶えず変遷する言語だと認識している。
先ほどの「ら抜き言葉」ではないが、「食べれる」「見れる」と言ったところで本来の意味が失われることはない。
現在日本人として生きている我々が、日本語を喋りやすいように変えているだけなのだ。
逆にこう何千年も話されている言語が、全くもって変遷しないほうが驚きだ。


こういう風に書くと、「じゃあ写メるでもいいじゃねーか」と言われそうだが、それは非常に短絡的だ。
そもそも写メを撮る、写メる、写メは文法的どころか存在自体が間違いである。
特に写メるなどは言語道断、日本語ですらない。いくら多少慣用的な自分でも、これは容認できない。
今現在もよく日本語の乱れが話題になる。これからの時代、以前より一層乱れが激しくなるだろう。
しかし先ほども書いたように、特に日本語は変遷する言語ゆえ、絶えず変化するのは必至だ。
だがどう見ても日本語と感じられないような言葉(写メる等)になるはどうかと思う。
変遷に歯止めをかけるのは、一人一人が自覚しない限り、ほぼ無理である。
日本語はとても美しい言語だ。この美しさを欠いてしまわないよう、自分自身も気をつけていきたい。